じくじくと神経を焼き切られるような、鼻孔に腐敗した汚泥を詰め込まれるような、常に喉元にナイフの切っ先を突きつけられているような、とにかく癪に障る嫌悪感が静雄の意識を苛む。原因が誰かなんてもう、吐き気がするくらいわかっている。指先で短くなった煙草を断ち切って、静雄は乱暴な足取りで60通りのほうへと向かった。集中などしなくても、そこに己の天敵であり兄弟でもある男がいるのはわかる。
距離はそう、5キロも離れてはいない。静雄たちは各々兄弟の居場所を離れていてもぼんやりと察知できるが、静雄はその範囲が他の兄弟に比べて桁外れに広い。臨也など他の兄弟が己の半径一キロくらいしか探れないのに対し、静雄はその気になればこの東京都内から正確に兄弟の位置を割り出すことができる。生来持っている野生動物じみた勘の良さが影響しているのだろうと、弟は言うが静雄にはどうでもいい。
問題なのは、ちょっと神経をとがらせるだけで考えたくもない男の居場所まで、脳裏に浮かんでしまうことだ。浮かべばすぐに殺しに行きたくなるので、静雄は彼を殺す時は彼が自分の領域に侵入してきた時だけ、とルールを作ることにした。そしてそれは今破られた。
間違えるはずもない天敵の気配。そのすぐ隣に別の兄弟の気配もしたが、『憤怒』の名に相応しいほど怒り狂っている静雄の脳みそはそれを無視した。
そして、天敵との距離が十数メートルまで縮まった時、静雄は近くにあったコンビニエンスストアのゴミ箱を掴み、大きく振りかぶって投げた。べきべきとゴミ箱と地面を固定していた金具が外れ、コンビニエンスストアの店員や客が顔色を一気に青くして這這の体で逃げ出していく。いつもの光景など気にも留めず、静雄はゴミ箱が命中して吹っ飛んでいった臨也へと声をかけた。
「いーざーやーくーん」
何かに気をとられていたのか、臨也はさしたる抵抗もなく吹っ飛んでいった。その醜態が少しだけ小気味良く、ざまあみろと笑うがその感情よりもやはり腹立たしさが勝る。
「池袋には二度と来るなって言わなかったけかー? いーざーやー君よぉー」
殺そう。今度こそ殺そう。この激情の赴くままに、この『憤怒』が支配するままに。静雄が一歩踏み出した足はけれど、突然の闖入者によって阻まれた。
「兄さまっ!」
胸に飛び込んできた、暖かく小さな身体。静雄は目を見開いて驚きに硬直しながらも、この小さな妹を抱き潰してしまわないように細心の注意を払いながら優しく抱きとめた。小動物を連想させる大きな瞳と目が合って、一瞬にして自分の『憤怒』が収まっていくのを感じた。
「兄さま! 兄さまですよね!? まさかこんなに早く二人目に会えるなんて!」
「妹、だよな、お前?」
それ以外に何があろうかと、抱きついてきた少女は嬉しそうに頷く。よほど嬉しかったのか彼女の目元にうっすらと浮かんでいる涙を静雄は指先で拭いとると、小さく笑いながら名乗った。
「俺は平和島静雄。見ればわかると思うが、『憤怒』だ」
「ヘイワジマシズオ?」
きょとんと少女が目を瞬かせる。自分の名が悪い意味で有名だと自覚があったので驚かれたり怖がられたりするだろうとは思っていたが、この反応は予想外だ。
「憤怒の兄さまが、ヘイワジマシズオさん? 同姓同名ってわけじゃ、ありませんよね?」
「俺の知っている限りじゃ、ヘイワジマシズオは俺だけだ」
何か不都合でもあるのか、と尋ねれば少女は首を横に振った。
「友達が絶対に近付くなって言う人の中に、ヘイワジマシズオって名前があったので。どんな人かなって思ってたんですけど、まさか兄さまだとは思っても見ませんでしたし、それに」
別になんてことはない、普通の人ですね、と。さらりとそんなことを言う妹に静雄は驚いて固まった。臨也の隣にいたのだから、あのゴミ箱を投げたのが静雄だとわかっているはずだ。だがそれをふまえてもなお、静雄を普通を言い切る。
「あ、紹介が遅れてすみません。『強欲』なぼくは竜ヶ峰帝人です。この前進学のためにこっちに越してきて、今日はたまたま会った傲慢の兄さまに色々教わろうと思っていたんですけど」
傲慢の兄さま、憤怒の兄さまにゴミ箱投げつけられて吹っ飛んでしまいました。静雄に抱きとめられたままちらりと後ろを振り返った帝人の視線に先を眺めて、静雄はようやく臨也の存在を思い出した。だがまあ真ではいないだろうので、無視をする。
「あんな奴を兄なんて呼ぶ必要はない。ウジ蟲で充分だろ」
「いやいや、さすがに兄さまをウジ蟲呼ばわりはできませんって」
臨也の容態が気になるのか、身をよじって静雄の腕から抜け出そうとする帝人になんだかむっときて、慎重に力加減をしつつも腕に力を込め、帝人の耳朶に「あいつなんか心配するな」と囁く。
「あれくらいで死ぬんだったら、今までに何度も俺が殺してる」
「それは大丈夫だという保障にはなりませんよね、兄さま!」
「駄目だよ、そいつ脳みそまで筋肉でできてる奴だから。日本語が通じないんだ」
いつのまに復活したのか、不機嫌そうに眉を歪ませた臨也がするりと帝人の後ろ、つまり静雄の目の前に立っている。永遠に気絶していればいいのに、と不満を隠そうともせず静雄は殺気のこもった視線で臨也を睨めつける。しかし当の臨也本人は、まるでそよ風が頬を撫でるのと変わらないくらい涼しげな顔をしていて、その顔にまた腹が立つ。
「俺の時は抱きついてくれなかったのにー。シズちゃんばっかずーるーいー」
「帝人にさわんな。帝人が汚れるだろーが」
「うるせーこのムッツリ」
「死ね」
「痛い痛い兄さま潰れるぼく潰れちゃいます兄さま!」
気がつけばうっかり力を入れすぎていたらしい、腕の中で帝人が叫ぶ。慌てて手を離せば、帝人は赤くなった頬を隠すように両頬に手をやって、どうしようもない兄さまたち、と呟いた。
「なんですか、ふたりともぼくを抱き潰すのが趣味ですか? 東京では妹を抱き潰すのが流行ってるんですか? いい加減ぼくも怒りますよ? あと傲慢の兄さまはウザイのでちょっと黙っててください。いい歳した大人がかわいこぶっても全然可愛くないです」
その勢いに押されて静雄も臨也も押し黙った。抱き潰しかけたのは本当なのでぐうの音も出ない。大人しく帝人の機嫌が治るのを待つしかない。
「それで、他に兄弟はいるんですか?」
「怠惰がひとり。でも超忙しいから、すぐには会えないだろうね」
「・・・・・そうですか」
若干落ち込んだ帝人に慌てた臨也がなんとかしろよといったふうに静雄を見る。そうは言われても、静雄にだって弟のスケジュールはどうしようもない。
「一応連絡して、早めに会えるようにはしてやるから」
慰めるように帝人の頭を撫でる。途端にふにゃりと頬を緩ませた帝人に思わず静雄は臨也の方を向いて、
「おい、これが本当に俺たちの妹か? ていうか俺たちと同じ人間か? 小動物かなんかじゃねえのか?」
「やっぱりそう思う? かわいすぎるし、なんていうか、一緒にいるとこっちがものすごくいたたまれなくなってくる子だよね。汚い大人になった気がする」
「お前はもとから汚い大人だろうが」
さすがに否定できないと自覚はあるらしい臨也がそそくさと視線をそらす。叩けば埃が出るどころか噴火後の火山灰のように色々と後ろめたいアレコレが噴き出してくるような男なのだ。
「でもぼく、兄弟がさんにんも出来て嬉しいです」
ずっとひとりだったからと、妹は寂しそうに、けれどその分嬉しそうに微笑んだ。
その寂しさは孤独からではない。孤独もあるだろうけれど、それは理解されないことからくる、何よりも深い悲しみだ。誰にも理解されず、ずっとひとりで己の中で暴れる激情を押さえ込まなくてはいけない辛さはきっと、ひとりではなかった静雄には一生理解できない。
「ひとりじゃないよ」
いつのまにか帝人の隣に立っていた臨也が、帝人の頬を優しく撫でた。
「君はもう、ひとりにはならないよ」
血の繋がりはない、けれどそんなものよりも強い絆で繋がっている兄弟がいる。どれだけ自分を否定しようとも、自分自身の『本質』だけは否定できない。だからきっと帝人はもう、ひとりぼっちにはならない。ひとりぼっちにはさせない。
「俺たちの可愛い妹、ようこそ池袋へ」
ふたりの兄に手を差し出された帝人は嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はなによりも煌いていて、幸せそうな微笑みだった。
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