まだ興奮冷めやらぬ脳みそでふらつく身体を必死に動かして、悲鳴を上げる波江たちから距離をとる。自分で用意しておいてなんだが、この異常な人口密度の中を歩き回るのは骨が折れる。人を隠すなら人の中、と言言葉があるように、波江たちに狙われている帝人にとってこの人ごみはこっそり立ち去るには最も適しているわけだが、こうも体力を使い果たして歩くだけで精一杯の状態では少しだけ間違えたかもしれないと思わざるを得ない。
今すぐ崩れ落ちてしまいそうな膝を叱咤して無理矢理動かす。波江たちの視界から帝人が姿を消したことすら彼女たちは気付いていないようだが、それでも絶対に安全だと言える場所に到着するまで油断できない。この後起こる手はずになっている事態を考えれば、離れていたほうが安全だ。
(やばい・・・・・もう、限界かも)
まるで一週間徹夜したかのような全身の倦怠感と不快感に目の前がかすむ。自分がしたことを思えば当然の状態だが、せめてもう少し加減を考えればよかったと意味のない後悔が胸を焼く。限界、と崩れ落ちた帝人の身体がコンクリートの冷たさを味わう前に、気がつけば力強い腕が帝人を抱きとめていた。
「おい、大丈夫か、帝人!?」
「にいさ、ま・・・・・」
至近距離にあるサングラスの奥の瞳が驚きに見開いているのがよくわかる。静雄は昨日分かれた時と同じようなバーテン服で、焦ったように帝人を抱きかかえたまま何度も繰り返し大丈夫かと尋ねた。
「お前、なんでこんなフラフラな・・・・! 顔色もやべえぞ。家どこだ? 送って行ってやる」
「まだ、駄目です兄さま。まだ全部終わってないから・・・」
「全部って・・・・・」
始めたからには終わりまで見届けなくてはいけない。残りの力を振り絞って帝人は立ち上がると、遠くから響いてきた馬の嘶きを連想させるバイクのエンジン音に顔をほころばせて、人だかりの中心でうろたえる波江たちを振り返った。その帝人の様子に何を察したかはわからないが、厳しい顔をした静雄は「つかまってろ」と囁くと帝人を軽々と抱き上げた。
「っ、兄さま!?」
「あれが見たいんだろ。だったらこうしたほうがよく見えるし、お前も楽だろ」
確かに静雄に抱きかかえられていた方が目線の位置が高くなってずいぶんと見やすくなったし、なにより自力で立つ必要がなくなったので随分と楽だ。帝人はおずおずと静雄に礼を言うと、思い通りにならない身体に舌打ちをした。かなり体力を削ると予想はしていたが、まさかここまでとは思わなかった。
帝人は自分の『強欲』を利用して、今この場にいる全員の『欲』を限りなくゼロに近くなるまで減衰させていたのだ。セルティの登場でもはやその必要もなくなり、今は意識を遮断しているが、すさまじいまでの人数の意識を把握し、操作するのは激しく体力を使う。おかげで帝人はこのざまだ。だが決して後悔はしていない。必要なことだったと思う。
波江たちはさぞ怖かっただろう。自分たちをはるかに上回る数の、敵意も悪意も害意もなにもない、文字通り『無欲』な視線にさらされるのは。
波江のような人間は敵意や悪意が満ちた視線には慣れっこだ。しかし正反対の『ただ見つめられている』という行為には免疫がない。必ず恐怖し、混乱する。帝人の読みが当たった、見事な作戦勝ちだ。
(あとは頼みます、セルティさん・・・・)
もう帝人にできることなどなにもない。一度接続を遮断してしまえば、疲労困憊している帝人が再びこの大人数の意識を把握することは不可能だし、そうなった今、帝人はただの女子高校生だ。そこらへんのチンピラにだって負ける。大人しくこの騒ぎをやりすごすしかない。
「正直、驚いているよ」
セルティによる騒動も終わり、ぱらぱらと人ごみが解消されていく中で唐突に聞き覚えのある声が帝人の耳朶に届いた。誰かなんて、静雄が苛々し始めたあたりからわかっていた。ここで静雄に暴れられては困るので、兄さま、と帝人は静雄の服の袖を引っ張って彼を諌める。静雄も渋々といったふうに大人しくはなったが、依然として額の青筋は残ったままだ。
「ネット上で、相当の人数が『ダラーズ』を名乗っているという事は解っていた。だが、まさか今日突然オフ会・・・・いや、集会をやるなどと言って、わざわざ集まる者がこんなにいるとはね。ああ、人間とは本当に想像以上だね」
臨也は本当に楽しそうに、そしてどこか愛おしそうに、散っていく人々を眺めた。
「そしてまさか、こんな集団を創りあげた張本人が、俺たちの可愛い妹とはねえ。ダラーズに入った時からいつか創始者とは会ってみたいと思ってたけど、それが『妹』とは思わなかった。本当に、人生って言うのはおもしろおかしくできているね」
あっさりとばらされた帝人の正体に、静雄がわずかに瞠目したのがわかった。しかし別に彼らにばれたかたといってどうすることもない。『兄妹』なのだし。
「それで、なんでシズちゃんが俺たちの可愛い妹を抱っこしてるのさ、羨ましい!」
「なんかもう色々台無しです、傲慢の兄さま」
俺の胸に飛び込んでおいで! と言わんばかりに腕を広げている臨也に冷たい視線を送る。最後の残念な発言さえなければ、かっこいいと思わないこともなかったのに。
ほう、と息を吐くと帝人は降ろしてと頼むために静雄の顔を仰ぎ見た。だが静雄が表情だけで拒んでいるのだから、帝人にはどうしようもない。多少回復したとはいえやはり根こそぎ体力を使い果たした状態なので、送って行くという静雄の言葉に甘えることにしようとして、そこでふと。
まだなにも、終わっていないことに気がついた。
セルティの20年をかけた探し物。今は臨也の知り合いらしい団体に預けている、首に傷跡がある女性。矢霧誠二の異常とも歪ともとれる愛。矢霧波江の異常とも歪ともとれる思考。いなくなった張間美香の行方。まだなにも、決着がついていない。
「兄さまっ」
この喜劇とも悲劇とも運命劇とも群集劇とも惨劇とも詩劇とも思想劇とも叙事的演劇とも夢幻劇ともつかない、各々の感情が複雑に絡まりあった茶番は決して、閉幕などしていない。
~矢霧くんと張間さんのいざこざが終わった後~
(一部毛探偵のネタを含みます)
「え、まじで君あのボロアパートに帰るつもりなの? 本気? ていうか正気?」
「その本気で驚いている顔が心底ムカつくんで憤怒の兄さま、ちょっとあの顔潰してきちゃってください」
「よしきた任せろ」
「マジで顔潰そうとしてくるのやめてくんない? 考えなしに行動するのマジでやめてくんない?」
「ボロいからなんだって言うんですか。家賃安くて助かるんですよ」
「いくら家賃が安いからってあれはない。あんな耐震工事もしてないとこなんか引き払って俺のとこおいで! 部屋なら有り余ってるし広いし綺麗だし快適だよ!」
「帝人をテメーみたいな蟲の住処に行かせられるわけねえだろ。本人が帰りたいって言うなら帰してやりゃいいじゃねえか」
「・・・・・・・俺預言してやるよ。あれを見たら絶対シズちゃん今の発言撤回するから。俺はなんて馬鹿なこと言ったんだろ・・・・ってなるから」
~そんなこんなでボロアパートの前~
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「え、なんで憤怒の兄さま動かなくなっちゃったんですか? 傲慢の兄さまがなにかしたんですか?」
「うん、ちょっと気にしないであげようか。シズちゃんは今軽はずみな発言をした数十分前の自分を殺しに行ってるから」
「ものすごく意味わかんないですけど、兄さま」
「・・・・・帝人、お前今日はうちに泊まれ。んで明日は一緒に不動産屋行くぞ」
「動き出したらいきなり変なこと言い出したよこの人!」
「ほーら、俺の言ったとおりじゃん。こんなセキュリティと絶縁しているような場所に俺たちの可愛い妹を住まわせられるはずないだろ。大人しく俺のとこにおいでって」
「なんだよこのボロさ。俺が殴ったら崩れるんじゃねえか?」
「本当に倒壊しそうなのでお願いですからやめてくださいね、兄さま」
「あ、それもいいかも。シズちゃんがちょちょいと壊してくれれば、引越しもしやすくなるしね」
「いい加減にしないと今すぐその口ホッチキスで綴じますよ兄さま」
結局一週間に三回は臨也か静雄の家に泊まることとなにかあったらすぐに人を呼ぶことを約束させられた上に臨也特製改造スタンガンを渡されました
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