幼い頃から帝人には我慢ならないことがひとつある。どうにも許せなくて、絶対に嫌で、断固拒否することで、両親を始め幼馴染の紀田正臣も苦笑するしかない帝人の我慢ならないこととは、自分のものを誰かに取られることだ。
それがどんな些細のものでも、例えば食べかけのアイスなどでも、帝人は自分の所有物を他人に譲渡することは絶対になかった。だからといって帝人がケチなのかと問われればそうではなく、ただ単純に、『自分の』モノが『他人』のモノになることが嫌なだけだった。
小学校低学年の頃はそんなことは普通だと思っていて、
高学年になるころに異常だと悟り、
中学生になる頃にはすでにその理由を理解していた。
なぜこうも自分が『強欲』なのか理解した日から幾年か過ぎた、そろそろ桜も咲こうかという季節。
池袋駅の中央口改札前に降り立った少女は、くるり、とその場で一回転して360度自分を取り囲む光景を視界に焼き付けた。自分を上京へと誘った幼馴染の人の波という言葉がなんら誇張された表現ではないことを知って、未知の土地へ足を踏み入れた不安とこれから先の想像もできない未来を想っての歓喜に表情を歪ませながら、竜ヶ峰帝人は一回転したことによってやや乱れた黒髪を手櫛で整えた。
産まれてからずっと地元から出たことのないという、交通機構の発達した現代では送ることのほうが難しい人生を歩んできた帝人は興奮にうっすらと頬を染めて迎えに来るはずの幼馴染の姿を探す。小学校の頃別れたきりもう何年も会っていない幼馴染だが、チャットなどで会話を見ても彼の性格は変わってはいないようで、おそらくは別れたままの外見をしているのだろうと帝人は視線をさまよわせる。
「よッ、ミカド!」
「っ!?」
すわカツアゲかと怯えた帝人が慌てて顔を上げると、そこには髪を茶色に染め耳にピアスをした少年が映っている。まだ幼さが残っているその顔にどこか見知った影を見つけて、この少年が幼馴染の紀田正臣であることを理解した帝人は破顔した。
「もしかしなくても、紀田君?」
「疑問形かよ。ならば応えてやろう。三択で選べよ、①きぃd」
「わあ、やっぱり紀田君だ!」
「あれ? 三年かけて編み出した俺のネタをぶっ飛ばしちゃう? 完全スルーよりひでえせめて①くらいちゃんと聞けって!」
「だって時間の無駄だし」
ギャグとしてどうかと思う微妙なネタをかましてくる幼馴染に相変わらずだね、と微笑みかけて、改めてその姿をまじまじと見つめる。茶髪にピアス、ふたりで登下校していたあの頃は彼がこんなにも変わるなんて思いもしなかった。自分の予想を裏切る正臣の変貌っぷりに、帝人は小さく唇を尖らせた。
「髪染めたならそう言ってよ。昔と変わりすぎてて全然わからなかった」
「ごめんな。そーゆー帝人は全然変わってなくて驚いた。あ、でもこれは嬉しい誤算だな」
髪、まだ伸ばしててくれたんだ。そう言いながら、正臣は帝人の長い髪を一房手に取る。決して質がいいわけではないそれは、自分で整えていたためか毛先がばらばらで同世代の女の子と比べてもあまり綺麗ではない。
「だって紀田君が切ったら毎晩枕元に立っていじめてやるって脅すから」
「いやぁ、それでも切らないでいてくれたのはすっげー嬉しい。これで私服がスカートだったら言うことないのに」
「うるさいオッサン」
慣れない場所で慣れない服装などしたくない。スカートは足元がスースーして苦手なのだと、耳にたこができるほど話しているはずなのに、なぜだか正臣は隙あらば帝人にスカートをはかせようとする。もはや嫌がらせに近い正臣の勧めを、帝人はめんどくさいの一言で斬って捨てる。
「そもそもスカートなんて、制服以外で持ってないよ」
「じゃあこれを機に買えばいいじゃん。こっちじゃかわいー服たくさんあるし。これから見に行くか?」
「いいよ、お金そんなにないし」
「じゃあこれからどこ行くんだよ?」
案内するぞ、と自ら案内役を買って出る正臣に、帝人は以前から憧れていた場所をいくつか挙げる。とりたてそれらの場所に用があるわけではないが、なんとなく、上京したら足を踏み入れてみたいと思っていたのだ。
「あ、クレープ」
歩き始めて数分たったころ、前方に甘い香りをまき散らすワゴンが見えた。クレープ、と手作りらしい看板を掲げているそれには、女性を主な構成要因としたそこそこの長さの列が出来上がっている。
「並ぶか?」
「うん」
帝人が甘いものを好むことを覚えていたらしい正臣が、帝人の手を引いて列に並ぶ。しかし女子大生と思わしき女性の後ろに並んだ正臣を突き飛ばすようにして、一組のカップルが割り込んできた。帝人より身長が高いとはいえまだまだ成長途中で小柄な部類に入る正臣は、成人男性の容赦ない体当たりで倒れはしなかったものの危なっかしくよろめいた。
「・・・・・すみません、そこ、ぼくたちが先に並んでたんですけど」
自然と帝人の声が低くなる。不機嫌そうに振り返った男は、どうでもよさそうに帝人を一瞥した。その男の腕にしなだれかかっている女性も、帝人を振り返って眉をひそめる。
「はぁ? 俺たちのほうが早かっただろ、な」
「うんうん。なによ、彼氏こづかれちゃったからってそんな怖い目して」
どうやら非を認めるつもりはないらしいふたりに、帝人はこれ見よがしにため息をつく。東京には怖い人間がたくさんいると聞いてはいたが、こんなのばかりいるのだと思うと少しだけ上京は間違いだったのかと思う。
帝人は目を閉じる。そして今はもう帝人を見ることもなくクレープ談義に花を咲かせている男女へと、鋭く意識の矛を向ける。彼らの中に在る、クレープへの執着と言う名の『欲望』をこの手で握る潰すイメージ。
ぐしゃりと、帝人の手の中で彼らの『欲望』が潰れて消えた。
「すみません、そこ、どいていただけますか?」
一瞬にして呆けたような顔になったカップルへ微笑みながら、しかし有無を言わせない強い響きで言う。カップルは先ほどの勢いはどこに行ったのやら、「あ」とか「うん」とか言いながら素直に帝人たちの前から姿を消した。
「・・・・相変わらず、帝人はそーゆーとこ絶対退かないよなあ」
「だってぼくたちのほうが先だったし。嫌いなんだよね、自分のモノを取られるの」
行こう、と正臣を促して列に並ぶ。自分が取った順番を取られるなんて、帝人には我慢ならない。だから当然にように、奪われたモノを返してもらった、ただそれだけ。
帝人はどうしようもなく、『強欲』だ。自分のものが他人に奪われるのが我慢ならない。欲しいものは欲しい。どんな手段を使ってでも手に入れる。けれど、自分のものは絶対に手放さない。どんなに些細なものでも、絶対に。
それが自分の本質なのだと、帝人が悟ったのは中学生になった春だった。
どこまでも『強欲』な帝人には他人の欲が見えたし、把握できた。その矛先を変えることはできないが、今のように他人の欲を消すこともできるし、反対に増幅させることもできる。
そのことを帝人は両親にも友人にも、誰にも話していない。理解されないし、悪ければ精神異常者として扱われることがわかっていたからだ。同じように自分の本質を理解している人と出会えればあるいは、と思ったが、今まで帝人は自分以外にそんな人と出会ったことがない。そもそもそんな人がいるのかさえ、わからない。
それでもここならば、と少しだけ期待している。全国から人が集まる東京ならば、と。
「帝人?」
訝しんで正臣が顔を覗き込んでくる。帝人はクレープの注文に迷っているふりをしながら、小声で楽しくなりそうだね、と囁いた。その顔は本当に、愉しそうにゆがんでいた。
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