右を見ても人、左を見ても人、前を見ても後ろを振り返っても人。故郷では滅多にお目にかかれない光景にある種の感動を覚えながらも、帝人はひっそりとため息を就いた。人ごみは嫌いだし、なにより色形は違うものの似たような作りの制服の群れの一部に、自分もなっているという事実がさらに気分を盛りさげる。
「・・・・・・・そもそもぼく、逆ナンとか興味ないし」
せっかくだから逆ナンでもして東京の空気を味わってこいと、呆然とする帝人にそう言い残して消えた友人はあとで殴るとして、これから先どうしたものかと帝人は悩んだ。学校の課題なんてそんなもの、入学したての新入生には出ていない。つまり平日の半日が、まるまる予定なしでフリーの状態なのだ。
帝人がいる60通りには様々な店がある。ウィンドウショッピングだったら財布になんのダメージも与えないので帝人は好きだ。しかし店の数と比例するように行きかう人の数も多く、その光景は帝人からやる気というやる気を削いでいく。
人ごみは嫌いだ。人が多いということは、その分帝人に流れ込んでくる感情が多いということだから。人間のどろどろした欲望が否応なしに頭の中に入り込んできて、脳みそをぐちゅぐちゅとかき回して血管をにちゃにちゃとかき乱していく感触は、充分発狂するに値する。子供のころは本当に発狂しかけた。上京することを決めた際に決意はしたものの、だからといってこの嫌悪感が緩和されるわけでもない。
だからぶっちゃけると、帝人にとって人ごみをうろつくのは自殺行為に等しい。そこまでいかなくとも、錆びついたナイフで己の手首を切る努力をするようなものだ。
大人しく家に帰って夕食でも作ろうと、踵を返した帝人の視界に見覚えのある少女が映った。自分と同じ制服を着ている彼女は、男子の立候補者が最後まで現れなかったためやむを得ず同じクラス委員となった帝人をすんなり受けれいれた、帝人よりも大人しい顔つきをしている少女。名前は確か、園原杏里と言っただろうか。
そんな彼女は今、同じ来良学園の制服を着て派手に化粧している女子数人に囲まれている。一瞬友人かと思ったが、明らかにタイプが違うし、なにより雰囲気が険悪すぎる。あれで友人だというのなら、ヘビとマングースだって仲良く共存できる。
こそこそと路地に入っていった彼女たちを、帝人はため息ひとつで追いかけた。見てしまった以上、止めないのはなんだか後味が悪い。
「あんたさ、張間美香がいなくなったのに随分とでかい顔してるみたいじゃない?」
それは女子特有の陰湿さを伴った、一方的な尋問だった。
「クラス委員になったんだって? なに優等生ぶってんの?」
「なんとか言えよ、中学の時は美香の腰巾着だったくせしてよー」
こっそり物陰から様子を伺っていた帝人は、何を言われても反応を返さない杏里よりも、この時代にこんなコテコテのイジメを行う少女たちに驚いていた。こういうやり取りはもはや漫画かアニメの世界でしか見れないと思っていたが。
すぅ、と息を大きく吸って準備をする。彼女たちもまさか、突如入ってきた空気の読めない部外者に手を出すほどではないだろう。彼女たちの中の杏里を詰問したいという『欲』を抑えれば、わざわざ帝人が出て行くまでもなく終わる話なのだが、この場合帝人の『強欲』では『憤怒』と結びついている彼女たちの『欲』を抑えるのは難しい。できないわけではないが、よほど集中しないと無理だし、かなり疲れる。
なので『空気読めない子を演じて園原さんをかっさらっちゃおう』計画を実行する事に決めた。顔を覚えられて後々何かされたら面倒だが、その時はその時で考えればいい。
と、決意を固めた瞬間、帝人の肌という肌がいっせいに粟立った。
ぽん、と後ろから肩に手を乗せられる。帝人は振り向かない。振り向かなくても、そこに立っているのだが誰だが理解できた。
「イジメ? やめさせに行くつもりなんだ? 俺たちの可愛い妹は友達思いの良い子だね」
じゃあここは、おにーさんに任せなさい。軽い台詞を囁いて、臨也は帝人の手を引いて足音高らかに女子たちの前へと歩いていった。
「いやあ、よくないなあ、こんな天下の往来でカツアゲとは、お天道様が許しても警察が許さないよ。ついでに俺たちの可愛い妹も、ね」
まるで気のいい友人達が交わす挨拶のように言葉を吐きながら、臨也はスタスタと女子たちへ近付く。帝人は彼女たちが臨也に呆気にとられている隙を見て、杏里の手を引いて彼女たちから距離をとる。
「イジメはかっこ悪いよ、よくないねえ、実によくない。君たちも俺たちの可愛い妹を見習って、慎ましやかで青春に溢れた学園生活を送ればいいのに」
「おっさんには関係ねえだろ!」
呆気にとられていた女子のうちのひとりが、やっと我に返ったように叫ぶ。本性丸出しのその姿は先ほどのねちっこい言い回しよりは清々しかったが、怒りに歪んだ顔が醜くて目も当てられない。本性をむき出しにする人は別に、嫌いではないのだけれど。
「園原さん、今のうちに逃げて」
「え・・・竜ヶ峰、さん?」
でも、と躊躇う杏里の背中を明るい通り道へと押し出す。
「大丈夫、あとはぼくの傲慢な兄さまが、なんとかしてくれるみたいだから」
また明日、と杏里に笑いかけると、帝人は脇目もふらず臨也のところまで走って戻った。何があったかは知らないが、いつのまにか女子たちは消え、臨也は楽しそうにべたべたとプリクラやシールでデコレーションされた携帯を踏み潰している。その横顔は本当に楽しそうだったが、帝人を視界に納めた瞬間に「飽きちゃった」と本当につまらなさそうに携帯だったものを踏み潰していた足を退けた。
「予想以上につまらないもんだね。携帯を踏み潰す趣味はもうやめるよ」
「そうですね、言語を話し二足で歩行する生き物としては、やめておいたほうが懸命だと思いますよ、傲慢の兄さま」
帝人が同意すると、臨也は意外なものでも見るかのように首を傾げた。その臨也の様子が不思議で帝人も首を傾げ、数分間お互い首を傾げたまま見つめあう。
「俺が『傲慢』だってこと、君に言ったっけ?」
「見ていれば分かりますよ。あんな、他人を観察して玩具にするような行動をしていれば」
あんな、人を見下ろして哂うような、傲慢な生き様を見せられれば。
「お久しぶりです、傲慢の兄さま」
制服のスカートの裾をつまみ、芝居かかった仕草で一礼する。自分の趣味ではなかったが、『傲慢』な兄にはちょうどいいかと、小さく笑う。ぽかんと口を開けてこちらを凝視していた臨也は一拍ののち、盛大に笑い出した。かと思えばいきなり手を伸ばして帝人を抱きしめた。
「なにこれ超可愛い! やばい可愛い! すごく可愛い! ああもう本当に愉快な子だね俺たちの可愛い妹はっ!」
「苦しい苦しい窒息させる気ですか兄さまっ!」
ぎゅうぎゅうとまるでぬいぐるみを抱き潰すかのように抱きしめてくる臨也の胸板を叩いて抗議の意を示す。さんざん抱きしめて気が済んだのか、帝人の背中に回していた両腕をほどいた臨也はその勢いのまま帝人の手を取ると、上機嫌に大通りへと飛び出した。
「さてさて、俺たちの可愛い妹は何が訊きたいのかな? 何でも教えてあげるよ、俺が教えてあげられる範囲で、ね」
なんでも、の言葉は逆に帝人を悩ませた。訊きたいことがありすぎて、どこから訊いたらいいのかわからない。散々迷って、それからようやく帝人が口を開いた瞬間、
路地の奥から、コンビニエンスストアのゴミ箱が飛んで、文字通り空を切って飛来してきて
「いーざーやーくーん」
振り返った臨也の顔面に命中して、そのまま臨也もろとも吹っ飛んだ。
「・・・・・・・・・へ?」
なんでゴミ箱が飛んでくるのとかなんでそれが兄に当たるのとか誰がそのゴミ箱を投げたのとかそもそもゴミ箱って空飛ぶっけとか疑問がぽんぽん頭の奥から湧き出してくるが、たったひとつだけ、答えがわかったものがある
路地の奥に男がいる。なぜかバーテン服を着て髪を金色に染めた青年で、背は高いが細身で、とてもじゃないがそこそこの重量があるゴミ箱を投げられるとは思えない。
彼を見た瞬間、心臓が爆ぜた。
人生において二度目の感覚が何を示しているのか、帝人は充分すぎるほど理解した。
「池袋には二度と来るなって言わなかったけかー? いーざーやー君よぉー」
彼が誰かは知らない。だが、彼が『何者』かはわかっている。だから帝人は走った。無我夢中で、本能が囁くままに走り、激情のままに男の胸へと飛び込んだ。
「兄さまっ!」
その時の彼の顔を、サングラスの奥で瞬いた瞳を、帝人は一生忘れない。
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