額縁越しに見える世界に、自分はきっと入ってはいけないのだろうと、園原杏里はずっと思っていた。
友人の張間美香や竜ヶ峰帝人などが住んでいる、華やかで煌いている向こう側。額縁の向こう側。杏里が焦がれてやまない、けれど決して手を伸ばしたってつかめるはずもない、眺めているだけの世界。
眺めているだけで、満足だったから。そこに踏み込むなど杏里には恐れ多くて、怖くて、自分なんかで怪我してはいけない世界だと、感じていたから。
だから園原杏里は満足していた。幸せだった。向こう側の友達が差し出す手を、眺めているだけで。
目を見開いて杏里の手元の罪歌を凝視する春奈に、杏里は静かに視線を向けた。握る罪歌の感覚は懐かしく、斬るためにある鉄の重さは杏里の手に良く馴染んだ。なるべくなら使うことなく一生を終えたかった、一振りの刀。
「あなた・・・・・・その刀・・・・・・罪歌!」
春奈が先ほどまで罪歌だと信じてた(それは断じて間違いではなかったのだけれど)彼女のナイフなどでは比べものにならない、鋼の色を煌かせる日本刀。
「その刀・・・・間違いない、五年前に、私を斬りつけた、あの刀」
その言葉に杏里は自身の予想が当たっていた事を知った。なら彼女の中の『罪歌』は、杏里の中にいる『罪歌』の娘に違いない。人間に例えるのなら母娘の再会だろうかと、杏里は額縁の向こう側からこちらを憎々しげに睨みつける春奈を眺めながら思った。
「あなた・・・・! もしかして・・・・・殺したのね! 自分の両親を! その刀で!」
「・・・・・・そうですね。私が殺したようなものなのかもしれません」
否定する気もなかった。この刀が両親に致命傷を与えた事は確かで、杏里がその場にいたことも事実なのだ。直接手を下したか否かなど、この際関係ない。
杏里は静かに刀を振り上げた。日本刀の扱い方など杏里の知る由もなかったが、筋肉の動かし方も身体の構え方も神経の張り詰め方も、全てを罪歌が教えてくれた。結果、刀の峰は寸分もたがわずに春奈の腕の急所を打ち、彼女を無力化させた。
「あッ・・・・・」
落としたナイフを拾うためとはいえ、敵の目の前で腰をかがめるという動きをした春奈の首に、すっと日本刀の刃が添えられ、身体の動きを奪う。無駄な動きをいっさい排除した簡潔で隙のない杏里の動きは、春奈のそれとはあまりにも違った。
「・・・・・そっちの『罪歌』の子供は・・・・戦い方までは、教えてくれないんですね。やっぱり・・・・・目的、意思は受け継いでも、経験や記憶は受け継がないんですね・・・・・」
困ったように眉を下げて、杏里は射殺すようにこちらを睨みつける春奈を見つめた。
「あの・・・・お願いです。他の『罪歌』に、もうやめるように言って下さい・・・・『親』である貴女が命令すれば、『子』もそれを感知する筈ですから・・・・。貴女が『罪歌』に乗っ取られてるんだったら、更にその親である私の『罪歌』が命令しても止まるんですけど・・・・・・」
「そんな・・・・そんなはずない・・・・・!」
圧倒的に有利だというのに、杏里の言葉はどこまでも『お願い』だった。それは争いを嫌う彼女の性格ゆえだったが、そのことがさらに春奈を激昂させた。首筋に刃を添えられた、杏里がほんのわずか腕を動かせば死んでしまうその状況にあっても、彼女は声を荒げて叫んだ。
「毎日湧き上がってきて、私の事を乗っ取ろうとしてきた罪歌を、私は乗り越えた! 押さえつけた! 愛の力で! それなのに、愛を知らない貴女に、私が貴女なんかに・・・・・!」
愛を知らない、それは間違ってはいない。けれど春奈の言葉は、根本的な部分でどうしようもなく間違っていた。杏里は静かに春奈の首の添えていた刃を動かす。
「贄川先輩・・・・・少しだけ、聞かせてあげます」
「え・・・・・・?」
「私の中にいつもいつも響いている――――罪歌の、『愛の言葉』を――――」
怪訝な顔をする春奈の腕に、たった一ミリ程、刀の先を埋めた。たった一ミリ、されど一ミリ。そこからあふれ出た『罪歌』の、触れるもの全てを切り裂いて溶解して抱き合わせて粉々にして狂わせる愛に、春奈を触れさせた。
呪詛にしか聞こえない、『罪歌』の愛を。
杏里には決して届かない、『罪歌』の愛を。
届かない、理解できない、けれど羨ましくてたまらない、『罪歌』の愛を。
そしてその愛が春奈の心を壊す前に刃を引く。彼女を廃人にしたいわけではない。ただ、ほんの少しでもいいから、本当の『罪歌』の愛をわかってもらいたかったのだ。
「・・・・・・聞こえましたか? 罪歌の言葉が」
呆然とする春奈の心が壊れていないことを確かめて、杏里はそう尋ねた。
「なん・・・・・で? なんで貴女は、そんな呪いの声に耐えられるの・・・・?」
「私は、色々と足りない人間です」
寄生虫と、罵られて当然だと思う心がある。誰かに寄りかかっていないと生きていけない自分を自覚している。
だから杏里は、悲しげな目をしていたけれど、まぎれもない笑顔を『罪歌』に向けた。
「だから、自分に足りないものを補わなくちゃいけなくて・・・・・・色々な『何か』に寄生して生きています」
他にも手段があったのかもしれない。これが最善の方法ではないかもしれない。それでも杏里は『罪歌』と共にいる。それが答えだった。
「私には、人を愛する心が足りないんだと思うから・・・・ずっとこの声を聞き続けるんです聞き続けられるんです。・・・・・・ずっとずっと、客観的に・・・・・」
杏里が俯くと、ばっと身を翻した春奈が足元のナイフを拾い上げ、杏里に斬りかかってきた。春奈が腕を振るうたびに杏里の身体には傷が刻まれ、血が流れる。脚にも腕にも、何個も何個も。
「アハ・・・・アハハハハ! やったわ! そうよ、貴女なんかに私が・・・・・」
春奈の勝ち誇った笑い声は、杏里の腕の動きに切り倒されて散った。いつ動いたのか、きっと春奈の目では確認できなかったのだろう、その喉元に突きつけられている刀の切っ先に、春奈が恐怖の声を洩らす。
「なんで、斬られるのを、怖がっているんですか? ・・・・・・斬るのは、愛の結晶なんでしょう?」
「ど・・・・・どうして、今、わざと斬られたの・・・・?」
その気になれば杏里が無傷でこの場に立っていられることに気付いたのだろう。杏里はその問いかけに、そっと伏せた眼を赤く光らせて、答えた。
「どうしても辻斬りの人たちを止めてくれないなら・・・・・これから貴女に少し酷いことをします。だから――――これで、貸し借りは無しですよ」
「え・・・・?」
「少しだけ貴女の心を、罪歌に乗っ取らせてもらいます。大丈夫です・・・・・死ぬような事はないと思いますから・・・・」
震える春奈の喉元へとゆっくり切っ先を近づけながら、恐怖のあまり意味のない言葉を洩らす彼女に、それでも杏里は容赦なく宣言する。
「・・・・・・謝りませんよ。ここでまで謝ったら、私の生き方を否定する事になりますから。・・・・・はい、私はずるいんだと思います・・・・・・貴女に酷いことをして、自分の平穏を守ろうとしているんですから・・・・。でも、仕方がないんですよ」
杏里は綺麗に微笑んだ。自虐的に、自嘲気味に、哀しそうに、微笑んだ。微笑んで、己を指差す言葉を呟く。
「寄生虫、ですから」
「あ、杏里。杏里・・・・なのか?」
聞き覚えのある声に、杏里の意識は一気に現実へと浮上する。振り返れば汚らわしいものでも見るような目つきをした那須島が、気を失って倒れている春奈を見つめていた。そこに教師として、否、人間としての尊厳はない。
「な、何をしたのか知らないが・・・・・こいつは前に職員室で俺に斬りつけてきた奴でな・・・・・問題にならないように学校で隠蔽して転校させたんだが・・・・・・くそ! まだ諦めていなかったのか、このストーカーめ!」
汚い罵り言葉を吐いている那須島をぼんやりと見つめながら、こちらを振り返った那須島の顔にわずかながらもくっきりと好色な表情が浮かんでいることに、どうしようもない生理的嫌悪をつのらせた、その時。
「園原さんに近寄らないでもらえますかこの女の敵っ!」
え、と杏里が振り返る、その脇を小柄な影が駆け抜ける。自分の背後に見えたのはわたわたとする首無しライダー。そして前を向いた杏里の目に映ったのは、那須島の顔にに華麗な飛び蹴り(しかもローファーの踵で、容赦なく)をくらわせている竜ヶ峰帝人の姿だった。
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