意識を集中させる。立ち入り禁止のビルの屋上から一望できる街の、忙しなく行き交う人々。その中からたったひとりを探す。自分から逃げているはずの『妹』。まだまだ未熟者な『妹』を探して、臨也は自分の意識を外へと向ける。薄く、広く、水面に浮かぶ波紋のように広げていくイメージ。
「――――見つけた」
まるで猫のように目を細めて、臨也は素早くその場を後にした。ひるがえったコートの裾が、視界の隅で揺れていた。
きっかけは臨也の気紛れだった。帝人に半ば無理矢理約束させた、週三日はあのボロアパートではなくセキュリティのしっかりした臨也か静雄の家への外泊。帝人は学生という立場上、平日に外泊するのは容易ではないようで、だいたい週末の金、土、日を臨也か静雄の家で過ごす。どちらの家で過ごすかは帝人の気分次第で、この日はたまたま、臨也のマンションに泊まっていた。
「鬼ごっこですか、兄さま」
興味深そうに臨也の本棚に並ぶ様々な書籍や表には出せないような情報がまとめられたファイルを眺めていた帝人は、小首をかしげて臨也の台詞をそのまま繰り返した。臨也は手元のPCを操作しながら、にっこり笑って「鬼ごっこだよ」と囁いた。
「鬼は俺。逃げるのは君。舞台は、そうだね、この新宿だけにしよう。あまり遠くに逃げられると探すのもやっかいだし、池袋にはシズちゃんがいるしね」
「やっかいもなにも、兄さま、そもそも舞台が新宿では話になりません。どれだけ広いと思ってるんですか」
「大丈夫だよ。俺たちはほら、探そうと思えば探せるだろう?」
曖昧な臨也の言葉に、けれども意味を理解したらしい帝人が頷く。臨也たちは『兄弟』の位置を曖昧ながらも把握できる。あくまであの辺りにいるなくらいのものだが、意識して探せばかなり的確に見つけることが出来る。
「とは言っても俺や君じゃ、がんばってもせいぜい半径一キロか二キロが限界だけどね」
「憤怒の兄さまはものごく遠くからでも正確にぼくや傲慢の兄さまの場所がわかるみたいでしたけど」
「個人差があるんだよ。シズちゃんは例外。あれってもはやチートだよね。俺がどれだけ逃げても隠れてもものすごい勢いで追ってくるんだよ? 本気になればこの東京都内全部把握できんじゃないの?」
まあ知りたくもないので臨也も詳細は知らないが。
「でも兄さま、それぼくが断然不利じゃないですか。ぼくまだそういうの、よくわからないんですよ」
帝人が不満げに唇を尖らせる。他の『兄弟』と会って日が浅い帝人は、『兄弟』たちが互いに引き合うことも漠然ながらも互いの位置を察知できることも知らなかった。臨也もこれは長年の経験によって培ってきた物なので、コツを教えろと言われても慣れろくらいしか言えない。
「俺が君を捕まえたら俺の勝ち。夕方の五時まで逃げられたら君の勝ち。我が侭をひとつ、叶えてあげる。だたし俺が勝ったら」
臨也は帝人の格好に眉を寄せる。節約のためなのか華美を嫌うのか、安っぽいTシャツに学校指定の体操ズボン、髪は櫛は通したもののぐしゃぐしゃで、化粧どころか色付きリップすらしていない。いくら室内だとはいえ、ひどすぎる。それにどうせ外出する時だって、そのへんの大安売りとかで売っている飾り気のない男性用の服を着るのだ。
「俺好みのかわいー服、着てもらうからね」
負けられない戦いが、誕生した。
帝人が身支度を整えて家を出てからきっかり一時間後に臨也も家を出た。要は新宿から出なければいいので、ファミレスで時間を潰すなり路地裏で息を潜めるなりやり方はいくらだってある。臨也が意識を広げて帝人を探すの同じように、帝人もまた同じやり方で臨也がいる場所を探しながら逃げているのだろうから、いくら帝人が不利とはいえ、勝ち目はある戦いなのだ。
だがそれでも臨也は帝人を見つけた。人気のない雑居ビルから周囲に意識を向ける、これを何度も繰り返すうちに帝人を見つけた。途中『怠惰』らしき気配を見つけたが、おそらく仕事中だろうので挨拶はなしにした。そもそも普段からそう親しく会話をする仲でもないし。
(お、気付いたのかな?)
急に帝人が移動するスピードをあげた。臨也も足を速めるが、帝人はバスにでも乗ったのかあっという間に臨也の意識の外へと消えていった。帝人もそう簡単に捕まってはくれなさそうか。そんなに嫌なのかと、帝人に「可愛い服を着てもらう」と言った時の彼女の表情を思い出す。スカートとか、似合いそうなのに。
今回はうまく逃げられたが、そう何度も続くまい。帝人はやり方を知らない。そう、例えばボールを100回投げろと言われて、100回全てに全力で挑もうとするようなものなのだ。できるわけがない。50回も投げないうちに体力が尽きるに決まっている。臨也だったらそこそこ適当に手を抜いて、100回投げきる。どちらが賢いのか、子供だってわかる。
「次は、逃がさない」
聞こえるわけないがそう囁いて、臨也は人ごみの中を泳ぐように移動する。何度も意識を集中させて疲れたから、少しくらいここいらで休憩するつもりだ。携帯のディスプレイに目をやれば、時刻はすでに午後一時を過ぎていた。残りはあと四時間程度。見つけられるかは――――臨也にも、わからない。
意外にも帝人は大健闘して、臨也が帝人を背後から羽交い絞めにできたのは約束の午後五時まであと三十分と迫った時だった。帝人は徒歩で逃げたら負けだと考え、経費削減と移動に多少の融通をきかせられる点からなんと移動手段に門田率いるワゴン組を利用していた。ずるい! と叫びかけたがルールに知り合いを利用してはいけないという記載はないしなにより油断していた彼女を後ろからハグできたので、臨也にそれを糾弾する気はなかった。
「ドタチンを使うとは・・・・・俺たちの可愛い妹はずる賢いね」
「だって駄目とは言われてませんし。いい加減に離してください兄さま。逃げませんから」
けっこう本気の肘鉄が臨也のわき腹にヒットした。我慢できないほどではないがそれなりに痛いので、臨也は両手を挙げて降参のポースをとると帝人から離れた。さすがに往来でのハグは恥ずかしかったらしい帝人が、まだ人目を気にしながら、それでも残念そうな顔でため息をつく。
「あと三十分・・・・・三十分だったのに・・・・」
「惜しかったねー。でも勝ちは勝ちだから」
君は馬鹿正直なんだよ、と臨也は笑った。
「常に集中して気を張っていたら疲れるだろう? 探すときだって、こう、意識を薄く伸ばす感じで、浅く探せば体力を使わないで楽に探せるのに」
ねえ、と囁けば、帝人はそんなこと思いもしなかった、という顔をしている。応用力は低いのかもしれないと、臨也はそんなことを考えた。それでも適応力はあるから、ここで一年も暮らせば徐々に慣れていくだろう。感心したような顔で頷いていた帝人が、突然、何かを思い出したかのように「兄さま」と声を上げた。
「でもなんで今日、いきなり
鬼ごっこをやったんですか?」
ずっと気になっていたのだろう、帝人はそんな顔をしていた。臨也はさらりとなんでもないことのように、口を開く。
「早いところ君を慣れさせておかないと、またこの前みたいに無茶して熱出すじゃん」
早いうちに帝人に学習させておかないと、また高熱を出して寝込んでしまう。あんなことを繰り返していたら、精神の前に身体が壊れてしまう。その辺りの折り合いのつけ方も学んでもらわないといけない。
「俺たちの可愛い妹、俺はね、君が思っている以上に君を気に入っているんだ。だから君がこんなつまらないことで壊れるなんて我慢ならない。君はもっと『
強欲 』を知るべきだよ」
呆けたようにこちらを見つめる帝人の、白い頬に指を滑らす。『傲慢』な『兄』からの忠告をどう受け取ったかは知らないが、学んでもらわなければいけないことは山のように在る。今まで帝人は、本能だけで行動してきたようなものなのだから。
「で、勝った俺のご褒美タイムだ。いい感じに近くにお店とかあるし、この後は買い物しながらどこかでご飯食べて帰ろうか。明日は俺のとこから直で学校行くの? それとも一旦家に帰る?」
「直で学校に行きます」
「ああ、じゃあ多少寝過ごしても大丈夫だね」
まるで本当の『兄妹』のように、臨也は帝人の手を取ると歩き出した。隣では苦渋の表情の帝人が、悔しそうな声で「あと三十分・・・」と呟いている。その様子があまりにも悔しそうだったから、臨也はつい、ひとつだけなら我が侭をかなえてあげてもいいかもしれないと、我ながら似合わないと自覚しつつそんな甘い考えを脳裏に浮かべた。
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