この『兄』が面倒という理由で感情を表情に出さないことは知っていたが、それでも無表情のまま「驚いた」と言われた時には、その台詞そのままバットで打ち返してもいいですかと尋ねたくなった。こちらをじろじろと見つめる幽の唇の端に指をかけて、どの口が言うのかとみょ~んと引っ張った。少しだけ気分が晴れた、気がする。
「ああ、喋らないでくださね兄さま。仮にも俳優なら醜態をさらすのは避けるべきです。ていうかぼくが見たくありません」
まあ幽ほどの美形になるとどんな顔をしても綺麗なのだが。帝人が指を離すと、幽は無表情のまま「だったらひっぱなきゃいいのに」と頬をさすった。
「それから言っておきますが、これ、ぼくの趣味じゃありませんから。傲慢の兄さまの趣味です」
まあ悪くない趣味ですけれど、と付け加えて、帝人はやって来た幽が開口一番驚いたと言った理由を見下ろした。つまりは今着用している、この間臨也がノリノリで選んだ、白いシンプルなブラウスと胸元は大きく開いた黒のノースリーブワンピースを。
「折原さん? あの人は目が肥えているからね、よく似合うよ。可愛い」
「スカート、あんまり好きじゃないですけどもらえるものはもらっておく主義ですし。あと他にも何着か買ってもらいました」
狭いボロアパートの一室で帝人は軽く一回転した。ふわりとワンピースの裾が広がる。嫌いではない。むしろ黒と白の、飾り気を取り払ったシンプルで大人っぽいデザインは好ましい。悔しいが臨也は良い趣味をしている。他に買ってもらった服もことごとくスカートで、その全て帝人は試着室で臨也に渡されるものをただ着続けたのだが、その中で帝人が嫌うデザインのものは一着たりともなかった。
幽も帝人が着飾らないことを気にしていたのか、視線で理由を尋ねていた。別に帝人だって着飾るのは嫌いじゃないのだが、自分が平凡な容姿だということを自覚しているし、臨也や幽といった自分よりはるかに顔が整っている異性と接していると、自分程度の顔が着飾ったところで何も変わらないんじゃないかと思えてくるのだ。考えれば普段はサングラスで目元を隠している静雄だって、さすが幽の血縁だけあってよく見れば顔が整っている部類にはいる。どうしてこうも『兄』たちは美形ぞろいなのか誰かに尋ねたくてたまらない。
「傲慢の兄さまに負けたんです。鬼ごっこで」
「鬼ごっこ?」
「傲慢の兄さまが鬼で、ぼくが逃げるんです。五時まで逃げ切れたらぼくの勝ち」
「あ、そっか。俺たちはわかるから、いい勉強になるね」
全てを察したらしい幽は納得したようにポン、と手を打った。徹底して無表情なのがなんか怖い。口には出さなかったけれど。
幽が無表情のまま、おいで、と手招きした。動くのが面倒らしく、床に座ったまま、おいでおいでと手招きする。帝人はそんな幽に呆れることなく、素直に近寄ると幽になされるがまま、彼に背中を向けて後ろからぎゅっとされるような形で彼の前に座った。
「勉強することは面倒だけど大切だよ。特に
『強欲』と『怠惰』 は」
わかっているよね、と彼の吐息と感情のこもらない言葉が、帝人の耳朶をくすぐった。
「『兄弟』の中で『強欲』と『怠惰』だけが、思うだけで、人を殺せるんだから」
そんなこと、
言われなくとも、
理解して いた。
帝人が他人の『欲』を――――生きたいという『欲』を―――――握りつぶすことで人を自殺させることができるように、幽もまた、人なら一度は考える『生きることは面倒』という怠惰な感情を増幅させて人を自殺へと追い込めるということを。
なんて重さ、と帝人は囁いた。思うだけ、それだけで弄べる他人の命は、その簡単さに反して潰れそうなほど重い。『兄弟』の中で『
怠惰』と『
強欲』 だけが、この重さを、痛感している。
「重いよ。いつだって人の命は重い。潰れちゃうくらいに、ね。だから俺たちは本当に気をつけないといけない。それを――――決して忘れないで、帝人」
帝人に体重を預けるように抱きしめてくる幽の言葉はどこか濡れているようにも聞こえて、無性に不安になった帝人が後ろを振り返って「兄さま?」と声をかけた。
「泣いているんですか、兄さま。悲しいことがあったんですか、兄さま」
「泣かないよ、俺は」
幽はまるで慈しむように、帝人のさほど綺麗ではない髪を撫でた。
「だって泣くのも面倒だからね」
そう囁く幽の顔はどこまでも無表情で、しかし帝人にはやっぱり、その言葉はどこか濡れているように聞こえた。だからきっと、泣くことさえ面倒と言っている彼も、泣くような時があるのだろうと、思った。泣けばいいと、思う。泣くことは決して、悪いことではないから。
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