仮にも母校の教師である男性の顔に何の躊躇いもなく飛び蹴りをかましてみせた少女は、危なっかしい着地を披露すると小動物を彷彿とさせるその顔を険しくゆがめて那須島を睨みつけた。杏里が見たことのない、竜ヶ峰帝人。
「例えあなたが贄川先輩に近付いたのがその身体が目的だったとしても、金儲けに利用するためだったとしても、その感情が愛なんて呼べないものだとしても」
蹴られたせいで血でも出たのか、鼻を押さえてうずくまる那須島に、帝人は杏里が聞いたことのないぞっとするような冷めた声で言った。
「自分を心から愛してくれる人に対する態度が、これですか?」
心の底から軽蔑した視線で那須島を見下ろし、それでもまだ腹の虫が治まらないのか、なお脚を振り上げる帝人をいつのまに移動したのか背後から首無しライダーが羽交い絞めにした。展開についていけないのか、慌てた様子でPDAの画面を主張している。
『みみみみ帝人、一旦落ち着こうか頼むから! せっかく見つからないように隠れていたのに色々台無しだ!』
「なに言っているんですかセルティさん、ぼくはこれ以上ないくらい落ち着いていますようふふふふ。こんなに冷静なのはアパートに帰ったら渡した覚えのない合鍵で侵入した傲慢の兄さまが盗撮用のカメラを仕掛けていた時くらいですよ」
『それは冷静に警察に通報するべきだから! きらめいた笑顔で聞きたくなかったぞそんなカミングアウト!』
笑顔で那須島を蹴ろうとする女子高生を必死に止める都市伝説という、ひどくシュールな光景。そんな時、帝人の蹴りの痛みから回復したらしい那須島が殺気のこもった視線で帝人を見上げたが、その後ろにいるセルティを見てその顔を恐怖一色に染めた。
「ひッ!」
地面に地をつけた無様な姿のまま後ずさり、そこに杏里がいると知るといなや、必死の形相で立ち上がって杏里の肩を掴んできた。
「な、そ、園原、先生と一緒に逃げよう、な? な?」
こんな時でも下心を覗かせる那須島に強い憤りと嫌悪が湧き出してきて、杏里はその手を強く振り払った。その意味が解らないのか、那須島は困惑した顔で杏里を見る。
「どッ・・・・・どうして拒否するんだ? な、園原、いじめっ子から助けてやっただろ? 前、な?」
「その借りは、もう返しました」
「ま、まさか今ので? そ、そんな事を言っている場合じゃないだろう!」
「いいえ・・・・・今のは私の為にやっただけですから・・・・・」
そのまま杏里は、まだ春とは言えないほど寒かったとある夜のことを思い出した。那須島とセルティ、ふたりに遭遇した夜のことを。
「私は――――ついこの間まで、この黒バイクさんが斬り裂き魔だと思っていました・・・・だから、先生が襲われているんだと思って、もう、無我夢中で――――力を、使って――――先生を助けたかったから・・・・」
「え・・・・・・」
「先生が好きだからじゃありません。嫌いだからです・・・・・・・ッ! だから、先生への借りは絶対に返しておきたかったから・・・・・・!」
自身の感情をぶちまけて、杏里は呆然とする那須島にある疑問をぶつけた。
「でも、先生・・・・・・・不思議なんです。この黒バイクさん・・・・・とっても・・・・・とってもいい人なんです。私なんかよりもずっと強くて・・・・・・真面目で・・・・この街を守ってくれているんです」
不思議だった。セルティはなんの理由もなしに人を襲うような性格ではない。優しくて強い、素敵な人だ。だからずっと、疑問に思っていたのだ。
「先生・・・・・先生は、どうして黒バイクさんに追われていたんですか? いったい、何をやったんですか・・・・?」
杏里には温和なセルティに襲われるような理由がわからなかった。だから直接本人に尋ねてみたのだが、その瞬間、ようやく杏里の持つ『罪歌』に気付いた那須島が、悲鳴のような声を上げた。
「お、おおお、おお、お前もなのか杏里ぃ! お前も、俺にその刀を向けるのかかかかか、かッ、カッ」
「うるさいので半永久的に口を閉ざしてついでの鼻からの呼吸も止めてください、先生」
醜くうろたえる那須島の後頭部にすこーんと小気味いい音を立てて帝人のローファーが当たった。履いていた物を投げたらしく、仁王立ちする帝人の右足は靴下を地面につけている状態だ。
「逆恨みもいいとこですね。本気で見苦しいです。ていうかセルティさん、お知り合いの方ですか?」
『いや、知り合いってわけじゃないんだけど・・・・・・・この前仕事でちょっと。確か粟楠会関係の闇業者から金を借りたり、後はまあ色々やらかしてけっこうやばい状態になっている奴、なんだけど・・・・・』
「・・・・・・・なんだかぼく、生徒として恥ずかしくなってきました」
はあ、とこれみよがしにため息をついて、帝人は怯える那須島へと踏み出して距離を縮めた。
「あなたがどこから金を借りてどんなピンチに陥ろうがどうでもいいんですけど・・・・・・ぼくの友達に手を出すのだけは、許さない」
強く那須島を睨みつける帝人の瞳の奥になにかが瞬いた気がして――――杏里は知らずのうちに強く自分を抱きしめていることに気がついた。まるで幽霊や妖怪に怯える子供のように、強く、しっかりと。
「色々と面倒なので記憶とかその他モロモロを消去したいですけど、残念ながらぼくにはそんなことできませんし。かわりにあなたの『欲』、もらいますね」
「え・・・・・」
「いただきます」
にっこりと笑った帝人は自分より高い位置にある那須島の顔面を片手で鷲掴みにすると、何かをした。何をしたのか、杏里にはわからない。ただ自分の肌がいっせいに粟立ち一瞬だけ自分の中の『罪歌』が何かを囁いたような気がして、我に返れば那須島は気絶してその場に倒れこんでいた。
「ごちそうさま」
酷くつまらなそうな、例えるのなら何か不味いものでも食べたかのような表情で、帝人が意識のない那須島を見下しながら吐き捨てた。彼女がいったい何をしたのか、杏里にはわからない。わかりたくもない。呆然と帝人を眺めながら、気絶でもしてしまえば楽なのだろうかと思った。
「竜ヶ峰、さん・・・・・・・・」
こんなところで、会いたくなかった。こんな姿など、見せたくなかった。
見つからないように隠れていたと、セルティは言っていた。どこから見ていたかは知らないが、彼女は全て理解しただろう。杏里の中に何がいるのか、杏里が何に寄生して生きているのか。
一生何も知らないまま、共に過ごしていきたかった。友達だからこそ、大切だからこそ、巻き込みたくなかったし、こんな自分を知って欲しくなかった。彼女は、帝人はなんて言うだろうか。軽蔑するだろうか? 怯えるだろうか? 今までと同じように接するなど、夢のまた夢だと杏里はわかっていた。
情けなく震えた声で呼ぶと、帝人はふっと柔らかく微笑んで、杏里に駆け寄ってきた。
「大丈夫、園原さん? 怪我しているみたいだけど・・・・・・病院行く?」
「・・・・・・・・え」
あまりにも普段と変わらないその態度に、一瞬彼女は何も見ていないし何も知らないのだと勘違いしそうになった。けれど彼女は確実に、全てを見ていたし全てを知っている。
「園原さんの中に何かがいるの、ぼくは初めて会った時から気付いていたよ」
「っ! どうして・・・・・」
「ぼくは一応人間だけど、普通の人間とは少しだけ違うからね。それが『罪歌』だとは知らなかったし、わざわざ園原さんが隠していることを指摘しても、しょうがないし」
一応人間、のところで帝人は少しだけ寂しそうに、哀しそうに、微笑んだ。それがなんだかたまらなくて、杏里は思わず帝人の手をぎゅっと握る。帝人が驚いたような顔をしたあと、すぐに嬉しそうに微笑んだから、杏里もつられてなんだか嬉しくなった。
「それが『罪歌』?」
「っ、はい・・・・」
「じゃあちょっと挨拶させてもらうね」
挨拶の意味がわからない杏里が困惑している隙に、杏里の腕から日本刀を抜かないままそれに触れた帝人は、なんの躊躇いもなくその刃を盛大に血が出るまで握り締めた。
「! 竜ヶ峰さん、なにを・・・・・・!」
慌てて帝人の手から刃を離し、溢れる『罪歌』にストップをかけて帝人から引きずり出す。杏里の素早い処置と触れていた時間が短かったことが功を奏したのか、どうにか発狂は免れた帝人が、頭痛でもこらえるかのように顔をしかめて――――微笑んだ。
「噂には聞いていたけど・・・・すごいね」
「当たり前です! もう、こんな無茶をするなんて・・・・・」
声を荒げても、帝人はへにゃりと笑ってすごいを繰り返すだけ。杏里には意味がわからなかった。
「でも、ちゃんと知っておきたかったから。園原さんが抱えているもの」
ふにゃふにゃと笑ってる帝人の額に季節外れの汗を発見してしまって、杏里は何も言うことができないまま帝人を見つめた。
「それから、園原さんにもちゃんと知ってもらいたかったんだ。ぼくが持っているもの」
長い話になるけど、大丈夫? そう尋ねる帝人に杏里は微笑みながら頷いた。心の底から笑って、血が出ていないほうの帝人の手を、力いっぱい握り締めた。その手を帝人が握り返してくれた事に、幸せを感じながら。
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