久しぶりに訪ねた兄の住居の玄関に見れない小さな靴を発見して、幽はその場で首をかしげた。履き古したスニーカーに自分以外の来訪者の存在を知って、それでもなお幽は堂々と廊下を進んだ。他人に気を使うなんて面倒な真似は欠片もするつもりはないし、どうせ来訪者も『身内』だ。
がちゃりと居間へ続く扉を開けた瞬間、冷風が幽の額に流れる汗を冷やした。地球温暖化が騒がれる世間に顔向けが出来る程度にささやかな温度で冷房が効いている。そしてテレビに視線を釘付けにしている兄の姿を発見して、その場に兄以外の誰の姿も見えないことに幽は再び首をかしげた。その幽を驚かすように『妹』の声が響く。
「あっー!! なにこれ、血吸われた!? 血を吸われましたよ兄さま! 体力一気にどん底ってどういうことですか!?」
「だから、あいつがいきなり蝙蝠消したら血吸いに来るからひたすら逃げろっつっただろ。二段ジャンプで○押せば逃げれるだろ。で、消える直前に近付いてぶった斬れ」
「そうは言いますけどね、兄さま、これむちゃくちゃ難しいですよ。逃げても近付いてくるし普通に攻撃しても蝙蝠が邪魔してノーダメージですし」
「・・・・・・・・・・なにしてんの?」
テレビ画面には紅いロングコートを着た白髪の男が剣や銃でモンスターを倒していく光景が映っている。珍しいな、と幽は思った。昔熱中しすぎてコントローラーを握りつぶした兄はゲームをやりたがらない。気分が向上しがちなアクションゲームなどは特にそうだ。
「門田さんから借りたんです。ゲーム機本体は憤怒の兄さまが福引で当てました」
そう応えた『妹』の姿に幽は絶句した。姿だけが見えなかった彼女は、ソファーに座った静雄に覆いかぶされるようにして彼の足の間に座って真剣な表情でコントローラーを握っている。クーラーをつけてもなお暑いのかタンクトップにデニム生地のホットパンツを着た少女に、彼女に覆いかぶさるようにして後ろから彼女の頭に顎を乗せている兄はジーンズをはいているものの上半身は裸だ。
「つか幽、お前仕事は?」
「休み。旅行に行った知り合いにご当地プリンもらったけど、食べる?」
「食う」
簡潔に答えた兄に持参したマンゴープリンとスプーンを渡す。帝人は、と訊こうとして再度ボス戦闘に突入したらしいので邪魔をするのはやめておいた。自分も近くにあったイスに腰掛けて抹茶プリンを口に運ぶ。テレビ画面では帝人が操るキャラクターが赤い髪の女性モンスターの攻撃をくらって吹っ飛んでいた。
「憤怒の兄さま」
「ん?」
あーん、と強請るように口を開いた帝人の要求を察したらしい静雄が、自分の口に入れかけていたスプーンを帝人の口に入れた。そしてそのスプーンでプリンをすくって自分の口に入れる。あまりにも自然な動作に幽は勘違いしそうになったが、首を振ってその考えを振り払った。
『兄』だとか『妹』だとか言っているから勘違いしそうになるが、自分たちの間に血の繋がりはない。いくら帝人が『兄』を慕おうとも、いくら静雄が『妹』を慈しもうとも、他人から見れば自分たちはほんの少し歳の離れた男女にすぎないのだ。
きっと帝人も静雄も気付いていまい。自分たちが薄着で密着していることもプリンを同じスプーンで食べあうなんてバカップル顔負けな行動をしていることも。静雄と幽に女兄弟はいないし、帝人は一人っ子だという。『兄妹』の触れ合いを知らないから、彼らは平然とこんなことができるのだ。
「あああああああっ! 負けた! また負けた!」
「帝人、お前ゲーム弱いな」
「うるさいです! 兄さま、プリン!」
「ほらよ」
「むー」
むすっとしたままの帝人にプリンを食べさせる静雄の姿は、恋人同士というよりも兄妹同士というよりも、雛にエサを与える親鳥に似ていた。あくまで彼らの間にあるのは親愛でしかないのに、その姿は砂糖を吐きそうになるくらい甘い。幽はその姿をぼんやりと眺めながら、けれど何も言わず黙々と抹茶プリンを口に運んだ。下手に何か言って彼らが妙な関係になってしまうのは避けたいし、なにより彼らに気付かせるのはひどく労力を使いそうだ。『怠惰』である幽は天を仰いで、どうでにでもなればいい、と感情と共にプリンを胃の奥へ流し込んだ。
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